時代の波乗り法 NO17 『資格 no2』
前回資格について書いたが、とてもシンプルなことに今更ながら気づいた。
①いわゆる経営者には資格は不要。
②しかし、一般的な、公認された資格は無いが、経営者としての資格が無い場合には、市場からその資格がないと判断された場合、即 倒産する。
以上である。
至ってシンプルな、そして厳格な原則の中で、いわゆる【経営者】は生息している。
前回資格について書いたが、とてもシンプルなことに今更ながら気づいた。
①いわゆる経営者には資格は不要。
②しかし、一般的な、公認された資格は無いが、経営者としての資格が無い場合には、市場からその資格がないと判断された場合、即 倒産する。
以上である。
至ってシンプルな、そして厳格な原則の中で、いわゆる【経営者】は生息している。
資格社会といわれるほど、世には公的・私的資格に満ちている。
それに応じて資格オタクも侮れない。
資格取得を人生の目的にしている人もいるほど。
教師をやめた時、人生を生き抜く為に資格を、というやり方は持たないことに決めた。
明確な根拠は無いのだが、資格ではなく人間力で、みたいな気持ち持っていたことをはっきり覚えている。
今から思うと、かなり極端な考え方、若気の至りみたいなところがあるが、最近この精神がとても重要なことだったことに気づかされた。
旧食糧管理法が未だ存在していた時、農業で身を立てようとしていた先進的な農家にとっては米の販売資格(廃業・倒産したところから買い取る)はのどから手が出るほど魅力的な資格だった。
しかし、旧食管法が廃止され農家の産直がじゆうかされた途端に、事情は一変した。米屋の資格は地に落ちた。
時代によって資格の価値が変化することを目の当たりにした。
先述の【常識・非常識】のところと相通じるテーマが潜んでいるように思えてならない。
今日に至るまでの産業変遷史の中で繁栄し没落していった産業の中にもキット色々な資格制度が存在していたんだろうな・・。
石炭・下駄屋・バスの車掌さん・・・氷屋さん・・・・紙芝居屋さん・・
詳しいことは判らないけれど、公的資格の存在というよりもその業界の権益維持の為の縄張り意識が業界維持の為のハードルを設けたろう事は想像に難くはない。
逆にいつの世にも新たな業界が生み出されようとしつつあるときには、資格を付与するべき業界も存在しておらず、混沌状態なわけで・・・
今はむしろ民間のビジネスに求められているのは、新たな概念のもとに生み出されていく新たなビジネスなのではないか?
そこには必要なのは、資格取得して既存の組織の中で優位を保とうとする姿勢とは根本的に異なる精神なのではないか?
開拓者の精神・編集者の精神(在る要素Aと一見全く別物の要素Bを全く新しい視点から結び合わせることによって、今までに無い現実を生み出し、それによってA・Bをより活性化させる)など、想像力を発揮することによって生み出される新しい現実・・そこに必要とされる精神は資格を取得して既存の社会の中に適応しようとする精神とは根本的に異なるのである。
つまり資格を取らないことによって退路を断ち、クリエイティブにならなければ生きていけない実に危険な道を選んでしまったことに今更ながら気づいた次第である。
先回書いた同じテーマについてもう少し整理してみた。
ビジネスの世界では『常識』だけで生きていこうとすると、競争になる。
『常識』の定義については、色々あるが、ここでは【同じ考え方をする人が多数を占めるときの、その考え方】とする。
生活の安定のため又は自分の優位性を示す為に受験勉強する・メーカーがシェア争いを繰り広げる・・・・・
ここで過去からの宮崎(家)の変遷で『常識』から逸脱?と思われる、出来事をあげてみると
第三子を自宅出産
宮崎、死の宣告を受けるも、入院せず自宅で食養生
それまでの地元のお得意様をすべて手放す
家族は母親以外病院にかかった事が無い(歯医者以外)
フッ素洗口はしたことがない
肉食はやめている(ソフトベジ)
長女は高校入学直後、必要性を感じない為、退学(学歴で生きることを断念)
次女は小4だが完璧な不登校児
農機具業なのに月一で料理教室を開催
残業は一切しないさせない
長男は6年間、学校給食を利用せず手作り弁当を持っていっていた
以上はまだまだ序の口。
つまり世間の常識と少し異なる生き方を宮崎家はやってきた。
人と異なることをするのが目的ではなく、自分や自分の家族にとって一番自然な選択をしてきたら結果としてそのような選択になったということだ。
そこには自分の気持ちに反して、世間の常識に合わせていかなければならないという強迫観念は無かった。
いや無かったというのではない。
正直な気持ちで一歩を踏み出してみたら、その行動様式が『普通』『一般的』『常識的』では無かったのに驚き、たじろぎ、でもやはり勇気をもって実践し続けてきた、といったところか?
そこでは家族内や親戚の中でもさざなみが起こり確執が生まれたが、結果的にはすばらしい生活がまっていた。
わがままと正直さとは似て非なるものである、と言い聞かせたことが昨日のことのようだ。
そのような背景があり現在の業態が生まれたわけだが、生き方が今までのやり方から自分流になる時は非常識の様相を呈するが、そこで飛躍が起こり今までに無い新たな空気が流れ始め、すべてが活性化し再生する。
しかし時がたつにつれ、継続性・正確性が基本的になると、シフトした当初の非常識な状態が薄れ、日常性に支配されてくる。それが当たり前となってくる。
そこでは再び、非常識に対して常識が支配的な空気となる。
非常識・自己否定など当の組織にとって否定的な要素は否定的だからといってそれこそ否定してはならないと思う。
この否定的な要素のことを【混沌・カオス】と言い換えれば、この要素を否定し排除する組織は、あっという間に形骸化しマンネリ化し硬直化し時代の流れから取り残されることだろう。
だからといって【混沌・カオス】を野放しにしてしまったら、混沌を抜け出て飛躍直後からの安定期に向けた秩序つくりは不可能となり、その組織は本来迎えるべき安定期を『安定的に』経験することなく、崩壊していくことだろう。
【混沌・カオス】を内部に上手に抱え込みながら要所要所でそのエネルギーを解放し、絶えず組織が硬直化しないように活性化するための方法論が必要となるわけである。
最近、当店スタッフMJさんと宮崎がミーティング時論争になることが多くなってきた。
最近の具体的な例を挙げれば、商品仕入担当の宮崎のやり方に不満を持っている。それがきっかけで論争になったのだが、MJさんの言い方で特徴的なのは、『前の会社では』『普通』『常識』等の用語を多用し、宮崎のやり方を批判する。
なぜかしらそんな風ないわれ方をするとものすごく感情的になってしまうのである。一度昨晩じっくりと内省してみた。
どうしても話し合いの歯車が噛み合わないまま、お互いに感情的になってしまうのである。
何故か?
本当の理由はまだよくわからないが、現時点で気づいた点を整理してみると・・・
「常識VS非常識」の論争という側面がある。
宮崎が7年かけて取り組んできた事業の出発点には、『非常識』や『狂気』が潜んでいる。
・今までのお世話になったお客様をすべて手放した。事業を更に繁栄させるためには一人でも多くのお客様を獲得し、増客に努力すべきなのに、ある日を境に一切営業しなくなった。
したがってお歳暮も廃止した。
年賀状の廃止した。変わりにクリスマスカードにはしたが。
残業は一切無くした。
資金繰りがどんなにきつくても地元周りの営業マンは置かないことにした。
宮崎は代表ではあるが、宮崎農機具店の実務からは離脱し、宮崎がいなくとも問題解決能力の高いチーム作りが完成しつつある。
etc
つまり現状の組織つくりの出発点は相当非常識なものだったと思う。
中古農機をネットで全国にというコンセプトから外れたものは一切廃止し、それ一本に絞込み、それほど無かった余力のすべてをこのテーマに注ぎ込んできたといっても言い過ぎではない。
今の組織のメンバーの中でもっとも当時の狂気・非常識・情念・といったものを引きずっているのは自分かもしれない。
混沌とした根源的なエネルギーは新たなコンセプトを形にする時にはとても大切な無くてはならないエネルギーであるのだが、それが時とともにアウトラインがしっかりしてきたら、細部の未整備な部分を処理するより繊細な能力が必要とされるのである。
また、緻密で正確な仕事が要求されるようになる。宮崎の仕事はそれに相応しい人材を発掘し、その能力を遺憾なく発揮できる環境を整えること。
ここまで来ると宮崎の荒削りなエネルギーは実務にそぐわなくなってくる。
MJさんとのやり取りはその時期に来たというメッセージなんだろうと思う。
非常識なスタート、常識的な現在。
事業が軌道に乗り始め、日常業務が定着し、仕事量が増え、スタッフ数が増え、役割分担が始まり分業しながらチームワークで仕事を進めていくようになると、そこに必要なのは『常識』
「それは常識的じゃない!」と言われたときに、
宮崎は
「常識的なままだったら、今日の宮崎農機具店はなかった!」
今までどうしても話が噛み合わなかったんですが、やっと少し自分の中にある制約みたいなものを理解できつつあります。
<以後の対処法>
宮崎が実務から完全に抜けて、批判された宮崎のポジションに二人一組のチームを組んで、挑んでいただく。
相手先がある問題については、先方様を批判したり、強く要求するだけだったりというのではなく、日頃感じている事業の近代化について遅れていると感じているテーマについて提案させていただく。特に宮崎が取り組んできた
a:情報の共有化
b:問題解決法
c:自己再定義法
などについて提案させていただくなかで当店との関係をより強化していく。
時代が大きく変化しつつある時に、最も大切になってくるのが5W1Hの中で【WHY】だと思う。
要するに人生が問われるということだ。自分が何故それをし続けようとするのか、何故それに挑もうとするのか、何故今までやってきたそれに終止符を打とうとするのか?
答えは自分の中にある。
単に安定しているとか、単に続けてきたからとか、周りがみんなそうしているからとか、利益がいっぱいあるからとか・・では・・ない。
自分の心がときめくかどうかだ!
時代が特段変化せず安定していたあのころ!?
あのころ大切だったのは【WHY】ではなく、【HOW】だった。
問題なのはやり方、ノウハウ。重箱の隅をつつくような様式美が重要視されていた。
でも、今は違う。
事業のやり方の細かなところのみにこだわって済むような時代ではないと思う。
【HOW】ではなく、【WHY】
自分は何故それをしようとするのか!
モチベーションが問われているのだし、その営みの背景には必ず心を揺るがす感動的なストーリーが無ければならない。
だって人生かけてんだもの!
感動的ストーリーをテレビの中だけの話にしてはならない。
いま・ここ、にいる自分は 【奇跡】以外の何者でもないのだから・・・
そのことを忘れてしまったら、【生きる】とはまるで機械仕掛けのような惰性以外の何者でもなくなってしまうのだから!
もっとも、WHYを問わない惰性に埋没している人が多いからこそ、同じ発想・同じやり口に滑り落ち、競争が始まっていくわけで・・
そこに埋没している人たちは、人生はそんな甘いもんじゃない、死ぬか生きるかだ!という人生観を固めてしまうようです。
そうなるとそれ以外の世界観(競争ではなく、独創的な愛と創意工夫と相互扶助の世界観)が同じ時空の中に存在することが理解できず、信じてもらえないわけです。
みんな、自分の信ずる信念体系の中で生きているんだな~、と最近強く感じます。
でも、そのような姿勢のまま競争社会の中に埋没したまま生きていては、【成功】も【幸福】も【感動】も【感謝】も実体の無い言葉だけとしか感じられないでしょう。
で、そんな信念体系の中にからめとられたままでは、「人と地球に優しく」とか「環境に優しい」とか言葉をもてあそんでみたところで、本格的な影響力を世の中に与えることは出来ないでしょう。
自分の中の【WHY】を今一度覗き込み、吟味し古いパラダイムの中にいることを自覚できなければ、今世の中を覆いつくそうとしている新しいパラダイムの波を理解することは出来ないと思います。